ふと感じたことを

人間とは不思議なもので、どんなに取り繕っても、モノで気を紛らわせても一人では生きられないように出来ているのである。


わたしはひとりが好きだった。映画は誰かと観るより、一人で鑑賞して目の前で進んで行く物語に意識を集中させて、登場人物に感情移入したり、作中で起こる沈黙を味わってこそより深く楽しめる。何かを学んだり、練習したりするのにもひとりで集中して自分を理解する時間が不可欠だ。その日起きたことを思い出しては、感情の整理をしたり連想ゲームのように考え事を続けて物思いにふけることもあった。

何しろ、集団生活において求められるような細やかな気遣い、配慮を必要としない時間が自分にとって何より精神が休める時間であり、自分が一番必要としているものだった。

何か行動をするにもひとりの方が捗るし、人といる時に感じる煩わしさも無い。だからこそ、「ひとりでいる時間」が大好きだったし、何らかのコミュニティに属したり誰かに依存することなく生きていける、そう思っていた。

 

何よりも一人が好きな私だが、そんな私の考えを変える出来事が起こった。

 

それは、周りの人の老いや死だった。

初めて身近に感じた死

 

・幼少期からお世話になって、成人してからも集まって一緒に遊んでくれていた知人が突然死した。

その人はとても気さくな人で、釣りに行けば魚を届けてくれ、非常時にはお家に来て励ましてくれ、成人後のバスケの集まりに来た時は、「◯◯ちゃん、大きくなったね。こんなに立派になって。」と私の成長を喜んでくれた。

もはや知人という立ち位置に留まらない、親のように見守ってくれるけど保護者や友人ともまた違う、大好きだけど不思議な存在だった。

その人が、持病も無く元気だったというのにも関わらず、仕事中に突然死したというのだ。

お通夜に行ったらいつもの陽気な感じとは違う、落ちついた雰囲気の知人の写真が遺影としてそこには飾られていた。わたしはその人が死んだという実感が湧かず、ただ呆然と立ち尽くし見つめていた。
焼香の番が近づき焼香の台に近づくと、隣にある棺が目に入った。そう、それは知人が眠っている棺だ。

知人の友人が泣きながら棺に向かって何か語りかけていた。ハッキリ聞き取れたのは、「起きて。いつまで寝てるの。」これだけだった。知人は一向に起きない。呼んだら起きてくれそうなのに。もう話せることは無いのに、何故か遠目から期待している自分がいた。私も棺の方へ近づいてみた。大きくて立派な棺が、そこにはあった。知人の顔は見えない。その立派な棺は、まるで知人のこれまでの生き様を誇る様に、厳かに堂々と、ずっしりと座っている。死んだという事実は理解していても、実感がなかった私は棺を前にしてその時初めて「もうこの人は本当に死んでしまったんだな」と、肌で感じた。

遺影に映っている知人の顔は、いつもより落ち着いた雰囲気だったが、普段と変わらない優しげな眼差しでこちらを見つめていた。

その時間は、私に死というものを身近に感じさせた瞬間だった。

 

「今までありがとうございました」と知人が眠っている棺と遺影に向かってお礼を言い、会場を後にした。


思いがけず、それが知人との最後の時間になった。

 

・祖父母との時間

 

私は祖父母との関係が良好で、頻繁に会っている。

祖父母は典型的な孫には甘いタイプの人間で、私が小さい頃は欲しいと言った玩具はなんでも買ってくれたし、お菓子は際限なく買ってくれて、成長した今でも友達と出かけた話をすると「お金は足りた?先に言ってくれたらあげたのに。」と何故かお小遣いをくれる、そんな感じの人である。お金だけでは無く、塾や高校や習い事、部活などの送り迎えもしてくれ、とにかく私のためなら何でもしてくれた。何歳になっても無償の愛をくれる、かけがえのない存在だ。

 

私の祖父母は心身ともに健康だ。だから、ずっと一緒にいるとなかなか体の変化に気が付きにくい。

私はよく「おばあちゃん見かけは何歳か分からないよ!」とか「若々しい!」と半分は冗談で、もう半分は本心で言っていた。その度に祖母は「もうおばあちゃんも歳なのよ」と笑いながら言っていた。


そのようにいつまでも元気に見える祖母と出かけた時のことだった。

イタリアンのレストランに行ったら、私が頼んだ物を祖母も食べたかったと言う。それが好きなのか尋ねたら「違うの。味付けを知りたくて。」と返答が来た。

次にステーキを頼んだら、「今度おばあちゃんが作ってあげる。」と言う。どうやら、私が好きな食べ物を知って私に作ってあげたかったようだ。

いつも一緒に外食してもそのようなことは聞いてこないので、その時は珍しいと思った。

帰り際、祖母の歩くペースが少し遅かった。どこか調子が悪いのか尋ねたら、今まで私に見せたことの無いような苦しげな、弱々しい表情で「もうそろそろ寿命だから。ごめんね」と言われた。

 

思わず、言葉を詰まらせてしまった。

祖母は自分の体が日々老いていくのを感じて、元気なうちに私に何か出来ることをしてあげようと、料理に奮闘してくれていたのだ。最近、祖父母宅に行くとやけに豪華なネタを使った祖母お手製の鮪の握り寿司があったり、私の好きなお肉を焼いてくれたりと、奮発してくれていた理由をその瞬間理解したからだ。

 

祖父母の思いや、一緒にいたのに体の変化に気づいてあげられなかったこと、物心ついた時には大好きな祖父母はいなくなってしまうかもれない、と色々な考えが脳裏をよぎり何も言えなくなってしまった。

 

今までしてもらうことが当たり前のように、そして一緒にいることも当たり前だと思っていたが、祖父母がいなくなった後のことを想像したら、怖くなった。そして、強烈な寂しさに襲われた。

まだ目の前に祖母はいるのに。

 

その時ふと、私は誰かがいなくなることに抵抗し、寂しさを感じている自分に気がついた。

なんだ、1人で生きていけるなんて嘘じゃん。そう思った。

その日を境に、私に尽くしてくれた人がいたように、大事な人やこれから出会う人一人一人と向き合って奉仕しようと誓った。 

 

生き物のからだも、感情も価値観も日々変化していくものである。幸か不幸か、他の生き物と違って私たちは長く生きられる。長く生きられるからこそ、あらゆる手段を使って有限の時間を潰したり紛らわせようとする。そして体の変化、老いにも気づきにくい。気づかなくたって、時間は刻一刻と進んでいる。

 

誰しも人生には終わりがある。時間は有限だ。当たり前のことだけど、大事な人と一緒にいることのできる時間にも限りがある。

 

老いや、死が想像出来ない人もいると思う。

老いに抗いたい人や、死が怖い人もいると思う。

死生観は人それぞれだけど、どんなに頑張ったって誰しも老いからも死からも逃げることは出来ない。

 

命のリミットがあるからこそ、今目の前にある環境や一緒にいられることが当たり前だと思わず、その人との時間を大事にして欲しい。人との関わり方で後悔しないような生き方をして欲しい。

 

映画みたいに、何度もやり直しや修正なんて出来ないから。私たちの人生は、フィクションじゃないから。